自分ができることに気づく
また、テーゼとアンチテーゼシリーズ。
出来ないことに気付かされると、不思議とできることもはっきりとしてくるもので。
過去を振り返った時に、私の場合は、コーラスも好きですがソリストをやった時に気持ちのいいくらい賞賛を得ることが多々ありました。
歌を歌うのが本当に好きで
でも歌うのがラテン語歌曲やイタリア歌曲なものだから、日本で歌っても、正直誰にも声が届かないんですね。
便宜上、古典歌曲と呼ぶそれらの歌には
物悲しい歌もあれば
光るように明るい歌もあり
表情豊かなんですね。
そのことを思うと、私の場合は表情豊かな発想や表現がとても好きなのだとわかります。
それと同時にソリストというのは物凄いプレッシャーなわけですが
今思うとソリストでなぜ上手く歌えるのかといえば、
よく祈るからだとわかりました。
私にとってはもう30年以上、瞑想とお祈りは欠かしていませんから。流石に慣れてると言えそうです。
わたしにできること
それはお祈りすることなんだなぁと
最近はよく思い起こします。
生きている限り不安は尽きませんが、
不安というのは心の庭に生えた雑草のようなものなんですね。
雑草が増えてくるとそこに影が落ちて花が育たない。
丁度そんなようなことなんだろうと
私は思います。
だから定期的にお祈りをして
お庭を掃除してもらうんですね。
自分が掃除するんじゃない。掃除してもらうんです。
歌う時、ピアノを弾く時
上手くいく時はいつも自分ではない何かが
導いてくれる
自分がやらなきゃとなると
不安で仕方がないですが
自分を忘れているうちに
何か忘れていたことを思い出すんですね。
自分一人で生きているんでは無い
そこに神様のような存在があって
暖かに、穏やかに見守ってくれている
そして導かれるように生きているのだと
自分というわずかな砂粒であっても
歌えることに感謝する気持ちで歌う時
その声はわずかながら人々の耳に伝わるんだろうなと
言葉ではなくて
何か一種の波として
空気を伝わって
葉の上を伝う雫のように
一滴一滴地面へと確かに落ちて
その心を潤すのだと思います。
だからソリストになった瞬間
私は自分である前に
存在であり
そこに存在するという許可を感じ取る。
不安がなくなるというのはそういうことなんでしょうね。
我儘な自分に撒いた種は
不安という影によって危ぶまれているのだということに
気づかなければなりません。
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