自分ができないことを知る
よく、Que sais-je? (我何をか知る、ミシェル・ド・モンテーニュなど)と学生時代に友人と分かちあっていた頃を思い出します。
東大や京大、MITに行った彼らが精神性としていつも大切にしていたことでしたが、今になってそれを思い知らされると共に
とても大切な精神だと思い直させられるときがあります。
自分が知らないことを知ることが、学びの始まりだと言いますが
加えて、自分ができないことを知ることも、大切な人格形成プロセスなんだろうなと、最近はおもいます。
自分ができると錯覚していることがいかに多いことか。
できないことをできないと認めればどれだけ強くなれるかということも。
本当に強いひとというのは
自分がいかにできるかということを誇示するのではなく
できないこととできることの分別のつく人なんだろうなとも思います。
先般、日本から出ることにした理由を書きました。
正直あまりにネガティブなのでどうかと思いましたが
これは自分に対する自戒の意味でもあります。
自分ではどうしようもないことだってある、ということを認めました。
さすがに国の問題まで自分でどうにかできるとは思わないわけです私の場合は。
できることは、自分が住む場所、居るべき場所を選ばせてもらえることくらい。
自分がどうにかできると思うなら
色々とやればいいんでしょうけど、
どうしようもないと思うなら自分から手放せばいいのではないかなと。
少々荒っぽいですが、
自分ができないこともできると早まるのは
横柄というもので
本来なら人間一人にできる物理量というのは計り知れないほどに小さいわけで
それは卑下ではなくある種の畏れのような感覚なのではないかなと。
実は、周りにいるプロフェッショナルと言われている人達がそういう考え方をする一方で、逆に社会的に上手くいっていない人ほどこの万能感があるように思えます。
一線を画す人は自分の範疇外のことにまであたかもプロみたいな顔はしません。むしろその領域のプロをリスペクトする傾向にあります。
物事極めることがどれほど難しいことなのかを知っているからです。
100億以上稼ぐ社長さんほど、周りの人や他人の努力を馬鹿にするようなことは絶対にしません。
大抵、人のことを小馬鹿にしている人ほど他人の努力を貶します。
私は日本という国にいてこの貶されることに慣れてしまいましたが、翌々振り返ってみると、その筋のプロほど私のことをよくリスペクトして下さいました。
この違いはどこにあるか。
恐らくですが健全な自尊心を育成してるか否か?なのではないかなと。
しかしこの議論は、日本中が虐待天国であることを考えると愈々非常に難しくなります。
親に否定されて育った子が健全な自尊心を獲得するのはニワトリが空を飛ぶくらいに難しいことだからです。
要は虐待というのは羽はあるがそのポテンシャルを最初から奪われていると言える訳ですから、これはなかなか苦痛なことです。
それは、本来空を飛べるはずだと知った時のショックも相当なものですが、空を飛べることさえ忘れているうちはある意味では幸せです。
しかし内情は変わらないので何かの拍子に気づいてしまう。
今の日本社会を見ているとぼんやりとそんな風景が浮かんでくるんですね。
ひょっとして日本人がなんとなくいつも自信なさげなのは、そのせいなんじゃないかなと。
ここまでは、割と既存の事実についての一つの解釈に過ぎません。
本題はその後です。
つまり、実はみんな空が飛べるんだとわかったとしてです。
言い換えればみんなそれぞれに特色があり、キャラクターがあり、乃至魅力があるんだと自認し始めた頃合・・・それがいつになるかは定かではありませんが、60年後か、90年後なのか。
とにかく気が遠くなりますから私はここらで諦めることにしたのです。
あるとすれば次世代、今の20代より下です。
私も含めて30代から上はネグレクトや体罰は当たり前でしたから、ちょっとすぐの改善は考えにくいんですね。
20代より下の、これから生まれてくる子たちなんかにはそういう思いだけは決してして欲しくないですね。
みんな愛されて、あたたかい愛情の中で、あるいはここにいていいんだと言う、ある種の根拠の無い安心感の中で健やかに過ごして欲しいと願うばかりです。
これが、私ができないこと。つまり、今の日本をどうこうするなど、到底現実味がないということを認めざるを得なかったんですね。
だからといって自分の人生まで諦めることにはなりませんから、社会は諦めて、反対に自分のことや自分の身の回りの事だけでもせめてしっかりやっていきたい。
周りは無理かもしれないが
自分と、自分の周りくらいは何かしらいい影響を与えられることを考えるようにしています。
きっと神様も、そのくらいは赦してくれそうですからね。
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